発達課題としての通貨制度

夏休みに入って,子どもが家の中で遊んでいたりする。
先日,夕食後に子どもたちがおとなしく隣室でキャッキャしてるから,何かなあと思ったら,段ボールを切り刻んで「券」を発券しているのだ。

子供の券

8歳の姉は「何でもしてあげる券」「お料理券」「サラダ券」などを発券し,これを使うと指示通りに動いてくれるらしい。もっともお料理やサラダを作ってもらいたい,というときはこちらもサポートする必要があるので,全く便利な券だというわけではない。自分の欲求を券という形に変えているだけなのだ。何でもしてあげる券は,お布団の上げ下げに使わせてもらっているが。

4歳の弟はもっと単純である。中には「ボーリング券」というのがあり,これはどういうもの?と聞くと「これをつかうとね,てっちゃんがね,ボーリングしてあげるのよ」という。別にしてほしくないのだが。しかし,「ね,いつ使うの?いつ使うの?明日?明後日?」と目を輝かせて聞くので(かわいい),翌日使った(?)のだけど。

また,券を使った後どうするか,ということは全く考えていないようで,回収されるわけでもないから何度でも使えてしまうようだ。ボーリング券は「よし,つかうぞ,はいてっちゃン」と渡したら「これはどうしたらいいの?」と逆に聞かれたので,「うーん,棄てたらいいとおもうよ」と答えておきましたが。

さてさて,興味深いのは,どうしてこういうことをするのか,ということだ。
子どもにとっては,割と普遍的な行為だと思われる。私も子どもの頃,肩たたき券を発券したような気がする。もっともそれは,お誕生日プレゼントかなにかを渡そうにも資金力がなくて,労働力の対価として,という意味合いだったように記憶しているが。

幼稚園や小学校などで,そういう「券」を使った遊びを教える=模倣学習かな,と思う。
しかし,普遍的な現象であれば,ただの模倣ではなくて,人間の発達段階の中に「貨幣制度をみにつける」という課題がふくまれているのだろうか。等価交換のルール,あるいは何か(紙幣や券)を媒介にして「交換する」ということを学習する段階が,ア・プリオリに子どもに含まれているのだとしたら,面白い。

自分の欲求を口に出せないから,恥ずかしいから,紙に書いて渡すというのは違うと思う。なぜなら,券を使う時は「えー,しかたないなあ」みたいな振りをするからだ。それも含めて社会関係の学習なのか?

交換と強奪が他者との交流の基本ルールである。幼いうちからそれを身につけるのは,悪いことではない。

子どもは面白いものだな。