正しい母性?

そんなこんなで、参観日に言ってきたのだけど、その後懇談会のようなものがあって。教室懇談会、学年懇談会とありました。教室懇談会は教室の中でのみんなの様子がわかって良かったが、教室懇談は、ちょっと辟易でした。

多分、この感覚は普通の人とは違うと思うのだけど。

教室懇談は、三クラスが集まるので広い部屋に保護者が集められたのだが、そこで男性は俺入れて三名。基本母親なわけです。そこで話される内容は、「がんばれお母さん」的な話なわけで。二重に腹が立つんだよな。

まず、男女平等をいうのであれば、がんばれ「保護者」でしょう。
お父さんも育児に参加しよう、とかいう表現も嫌だ。参加する、というのは、基本母親が育てるもの、という世界に入ってこいということだろう。俺は参加しているつもりはないぞ。一緒にやってるつもりだぞ。
俺の考える理想の社会は、基本的に家あるいは家族を単位とするものである。
家族の中で、稼ぐ人が一人、家事をする人が一人、子供がいればいいのであって、そこに性別を関係なくすればいいのだ。稼ぎや家事を折半、あるいは関係性に依存して適度な比率で分けるのが現状だけど、それだと稼ぎも家事も不十分、という結果になりやすい。例えば、0.5単位の収入は、社会保障を受けるに十分でないとされる場合があるし、0.5の家事は綺麗に区分できないこと、競合するルールがたくさんあることなどから不経済な場合があるわけです。
もっとも、その社会が来ても、俺は外で稼ぐ方を希望すると思うけど、これは個人の嗜好です。
ま、これは前々から思っていることではあるし、家事ができたり、今みたいに一時的とはいえ父子家庭になっている俺の方が珍しいと思うから我慢しますけど。

もうひとつの方が、本当に腹が立つのです。それは、「がんばれお母さん」の内容的なもので。
今日の内容は、『お母さんって、子供を愛しているが故に、疲れてしまうことがありますよね。そんなとき、こんな詩を読んでみてください。こういうものを利用してみてください、云々』。そういうお話でした。

これ、結局”お母さん”を追いつめてないか。
母は子を愛すべきだ、という前提、その結果その母性ルートからドロップアウトしそうになっても(=疲れ)、詩を読んで正しいルートに戻れ、という強制。

母性というのは目に見えないし、子に与える影響もほとんどわからない(=測定できない)わけです。少なくとも単純な線型系ではない(=複雑系)し、正しさ、良さというのも測定できないメンタルなものなのだ。だから母性はなくていい、というわけではなくて、それを方向付けるな、といいたいのです。

俺は、子育ての基本は「放置」だと考えている。愛ある放置。カワイイから、自然と愛情がわくだろう。その程度でイイ。愛さなければならない、とは言われたくない。もし愛せなかったら、保護施設のような所を利用すればいいのです。愛せ、愛せ、自ら愛せ、それが正しい母性だ、といわれたら、できなかったとき、原因の帰属先は内的なものになるしかないじゃないか。うまく行ったところで、いつまでも愛してしまう過保護、という別の問題が生じるだけだ。
妻に教えてもらったある漫画(「三番町萩原屋の美人」by西 炯子)にあるように、「親に役目があるとしたらせいぜい人の道ぶっ外さねぇように拳鍛えとくってぐれぇなもんじゃねえんですか」というのが子育て法じゃないのかな。

別の言い方をすると、一点目のことも合わせてなんだけど、近代社会が作ってきた家族、親子像というのに違和感を感じているのだ。イメージとしては、江戸時代の頃の庶民感覚、かな。昔の人はここまで面倒な生活をしていたのだろうか?もっと気楽にやれるだろ?というのが常に頭にあるので。

おかげさまで私はハハオヤではありませんでしたので、ハハオヤって大変なものなのねぇ、と思うことで納得しておきましたけど。さて。