カワイイに疲れる

昨日と今日は、時間の使い方がうまくないな、俺。
ちょっとのんびりしすぎた。
おかげで、色々詰まってきてる。

きっと犯人は、エジプト帰りの疲労感と筒井康隆*1だ。

気持ちだけ詰まるのはヤメにしよう。それが今年のテーマだったはずだ。

さて、読書感想。構造構成主義とは何か―次世代人間科学の原理
構造構成主義とは何か―次世代人間科学の原理」である。タイトルに「構造構成主義とは何か」とあるのに、文中に「構造構成主義とは、○○である」という明文化された定義はない。志向の道筋をひとつひとつうめていく丁寧さ、周辺を固めてから本丸に取り組むという順番など、好ましいところは色々あったけど、中身についてはポカーン、という感じ。

ただ、これはこの本が悪い、といってるのではない。こう言ったことを考えたこともない人は、是非読むべきだ。例えば仮にも大学院に進学したのであれば、自分が何主義であるか、という程度の自覚は必要である。客観主義でもいい、社会的構築主義でもいい、とにかく研究する人間としての認識論的基盤を固めねば、お話にならないのである。実は、お話にならなくもないのだが、自分の認識論的主張を持ってない人間の研究はつまらない。あるいは、研究のための研究になっている可能性が高い。そういう研究の方が、研究業界で生き残るのだろうけどね。ただし、認識論的主張を持っている人でないと、研究の新しい分野を立ち上げたり、古い分野を破壊したりすることができない。例によってあいつの理想主義だぜ、と思われるかもしれないけどね。

さて、私にとってなぜこの本がピンと来なかったかというと、私はすでにシステム論的認識論を学部時代にたたき込まれたからである。もちろん当時は、なんでこんな形式論をやるんだ?と思っていたけど、今になるともうそこからはみ出すのは無理ですな。これはたたき込まねばならないモノであるような気もする。学部生や意識のない院生が、自発的にこれ(=認識論)に気づくとは思えないので。で、この本の著者も、構造主義的思考とシステム論的思考の類似点、相違点についてコメントしているけども、これは著者が言うほどどっちがよい、という違いはないと思いますよ。なぜなら、社会−心理システムを考えると、それは必然的に抽象的なモノになって、物理的実体に捕らわれるというほど足かせが生じないのだからね。

でまぁ、構造構成主義的視点が大事ですよ、という主張は簡単に納得できる話。システム論からこれを考えている私(やソシオニスト)にとっても、はぁまぁそれはそうじゃろが、というぐらいだった。私の打ち立てようとしている数理社会心理学が、構造構成主義だと言われたら、そりゃそうかもしれないね、と簡単に承伏できますよ。私は前々から、データさえちゃんと出来ていたら、その後のプロセスは確実に論理的なステップを踏める、と言ってはばからなかった人間なのだが、これこそ構造主義的科学論の立場だろうからね。

これを読んでいて思ったのは、ソシオン理論の売り方が間違っていたのかもな、ということだな。認識論をまず共有してくれないと、ソシオン理論に入れないものね。もちろん、ここでいう共有とは、認識論を持っているかどうかと言うことですよ。認識論がない社会心理学者に、ソシオン理論はいいですよと言っても、その包括性、統一性に気づいてもらえないんじゃないかな。

あるいは、もっと数学的な言葉を使って、公理公準にもとづく社会心理学をやろうぜ、という話をしてから、あんまり数学的すぎるのが苦手なのでしたらソシオン理論でどうぞ、という導入をするとか(笑)

さて、社会心理学は、それほどにイケてる科学かな。

*1:一昨日は、筒井氏の長編「俺の血は他人の血」を読んでいて眠れなくなった。相変わらずのぐっちゃぐちゃで、途中で読む手を止められなかったのだ。