教えることについての私論(返歌)

同僚の記事,教えることについての私論がなかなか面白かった。引用している記事の流れは本当に問題外で,時代錯誤という言葉で表現するよりは,そもそも「教える」のフレームに入っているかどうかがわからないレベルだと思う。

私にとって「教える」とは,端的に言えば暴力です。教えるとは,俺の考えに沿え,ということだからね。学校で,家庭で,あちこちで「教育」がされているけど,単一の正解がある質問に対して回答を求める時点で,間違いを罰する。つまりそれは暴力になりうるという自覚がないと,教壇には立てないでしょう。

私は大学で単位を出したりしていますから,基本的に暴力を振るっています。成績をつけるというのは,非常に権力的で嫌なことです。

でもやります。

それは,私は学位をもっているからです(学校の先生なら,「教員免許を持っているから」というところでしょう)。要は,教育すること,その学問領域での知識や記録について正誤判断ができる資格を持っているということです。その資格は,母校(師匠!)が出してくれて,それを現所属先が認めてくれたので,その責任の範囲内において評価できるのです。

大学や研究領域では,正解がわからない問いが多くあります。だから,学生は一般的な正解を探すの絵はなく自分の正解を見つけないといけません。いいかえると,自分の価値観(評価基準)を確定する,自分ベクトルの基底を求めるのと同じことです。そのレベルで学生と会話したいし,していると思っています。

大学で私は「何を言っているのかわからない」というセリフを何度も言います。ただし,それは「私の言うとおりにしなさい」という正解がある教育の文脈でのセリフではなく,正解のない研究の文脈の中でのセリフです。つまり,「コミュニケーションしたいのにできないから何とかしようよ(お互いに)」という意味です。

大学生にもなって,さらに言えば院生にもなって,正解を求める人がいます。そういう人とは,私の上述のスタンスと違うところが多いので,ディスコミュニケーションが生じやすいです。そういうときはもういっそ,わざと生じさせてやります。先日大学院の試験で「私は何が伝えたかったのでしょう」という課題を出しました。正解を探す学生にとっては辛い質問だったと思います。そうでない学生のレポートは,結局問いが自分に向いていました。そうなりますよね。

教育,という言葉は「知っている人が知らない人に伝える」という関数の名前だと思います。私はこれを否定するのではなく,そこに止めます。

「知らないことについて,腹を割って話し合う」「話し手の考え方を理解する」というのは,私の言葉では「教育」ではありえないのです。それはコミュニケーションであり,研究活動です。

教育は暴力的で,一方的なものです。もちろん,「こんなことも知らないのか」とか「教わる側の態度が悪い」みたいな,個人的かつ情緒的な話になりがちですが,そうならないようにしているプロが教師ってモンなんですよねえ。たぶんねw

そして,教わる側の社会環境や来歴が,ひと昔前と比べて多種多様になっているので,「教師は学び続けなければならない」わけです。人にものを教えるというのは,相手の事情や取り巻く環境について十分な理解と配慮をした上で,暴力的に価値観を与えることではないでしょうか。