文脈の切断と政治

先日メールで大失敗したのだ。
おかげで最近,メールが怖いw

メッセージは受取手がその価値,意味を決定する。そういうつもりで書いたわけではなかった,と言っても,そう読み取られてしまえばだめなわけで。そう読めないようにするために,一言一句に気をつけるべきだし,あるいはメールではなくてもう少し情報量の多い電話,あるいは直接の対話で情報を交換するようにしたほうがよい。

対話による情報交換は,逆に曖昧さを含む。顔を見てわかりあえた,ということは,客観的な解釈を定めないことでもあるので,「雰囲気でまぁ良しってことになったよね」と言っても「そのような記録は残っておりません」と言い換えされたらこれまた紛糾する。基本的に下のような対立関係にあるわけだ。

文書—————-対話
客観的————主観的
社会的————個人的
情報—————-印象
Cモード———-Pモード

「意味」や「行為」はこの間に存在する。

この両極のバランスを取りながら,つまり個人と社会のバランスを取りながら人は友人関係,社会関係を結んでいく。

しかしまれに,ごく個人的な関係やごく社会的な関係において,そのバランスを意図的に調節する人がいる。文脈をわざと遮断し,客観的な情報源に立っていると言いながら意味と行為をもてあそぶ人。キャラクターとして言えば「政治家」であろう。

普通,この政治家的人間の背後に,個性が帰属される。つまり,あの人は腹黒いから政治力でもって自分の都合の良いように物事を運ぶ,と指さされる。
半分は正解だろうが,おそらく単純に社会的パワーをもてあそぶことに目的があり,自分の都合のことを考えてない人もいるだろう(パトレイバー内海課長なんかそうではないか)。

もちろん,うまくもてあそぶことが出来れば,それは理想的なリーダーであり,あるいはプレイボーイであるだろう。

この力の良い側面,悪い側面のどちらが根底にあるか。これもまた,個人の性質によるものなのだろうか・・・。

なるべく個性,個人,人間性に原因を帰属することなく,議論を積み重ねていきたいが,結局は善か悪か,ジェダイかシスか,というところに行き着くのかも知れない。
社会システム論と共に,個人のあり方について悩む日々である。